私が文章を書き始めたのは、確か小学校三年生か四年生ぐらいだと記憶している。ちょうど、いじめをいじめだと認識し、自分がいじめられっこだということを理解し始めた頃だったと思う。
ある一人の男子から隠れて酷い仕打ちを受けてから外に出るのが怖くなり、もともと好きだった漫画とゲームに没頭し、よく食べ、むくむくと太り、太ったことで周囲からもいじめられるようになった。教師は助けてくれないどころか、教師から家畜呼ばわりされたこともある。太ることは悪なのだと思った。
この頃から追従笑いを知っていた。誰からも教えられなくても。
「死にたい」と初めて声に出したのもこの時期だった。悲しいとか辛いとかいう気持ちはなくて、ぼんやりと「死ねば楽になれる」と考えていた。初めて声に出した「死にたい」は母に伝えた。泣かれた。
「なぜそんな風に考えるの?」とは聞かれなかった。「何でそんな悲しませることを言うの?」と聞かれた。
泣いた母を前に罪悪感などはなく、「死にたいことは母を泣かせることなのか」と、「母が泣くならやめよう」とぼんやりと考えて、生きた。
もしかしたら本当に死ぬつもりなんてなかったのかもしれない。今でもリストカットなどをしたことはない。死ぬということのリアリティを知らずに、ただただ「楽になれること」とだけ思っていたのかもしれない。
ただあの時、大きな断ち切りばさみを憧れるように見つめていた事が、今でも記憶に残っている。
文章を書き始めるまでは絵を描くのが好きだった。父は画家を目指していた人だったので、とにかく絵が上手く、父のように絵が描けるようになりたくて必死に絵を描いていた。
そんな父が、仕事のために書院ワープロを買った。父はパソコンだのワープロだのを買ってきたら、私に自慢するようにそれらを触らせてくれた。ペンで画面に直接文字を書き込めるワープロは当時画期的で、私はすぐに虜になった。
今でもそのワープロは、家に置いてある。
大人になってから買った物は、断捨利とか言っていくつもの物を捨てた。捨ててから少し後悔した物もあったけれど、悲しむほどではなかった。
このワープロだけはどうしても捨てられなくて、使わなくなった今でも家に置いてある。
この写真を撮るために押入れから引きずり出してきて、今でも電源が付くのかと思って電源を入れてみた。
付いた。
このように、画面に直接絵を描くこともできた。かなり解像度が荒いので、絵を描く時はドットを打つようにしていた。
「底辺」と書き殴ってみたら、書けた。確か壊れたはずのキーボードも、なぜか打てるようになっていた。とても懐かしい気持ちになった。
話を戻して、小学生の頃。
父が仕事でワープロを使っていない時間、私は必死になってキーボードを叩くようになった。
絵は、私の思う通りの世界になってくれなかった。私の画力不足だ。父のように写真の猫を五分で描き写せる画力があれば、私は絵の世界に没頭していただろう。小学校三年生にそこまでの画力を期待する方が酷だとは思うけれど、私は自分が父のように描けないことが辛かった。父も私の絵を褒めてくれなかった。クラスでは上手い方だとはいえ、私に才能はないんだと思った。諦めてからは、すぐに何人ものクラスメイトに画力を追い抜かれていった。
対して、文章は私の世界を私が書いた通りに表現してくれた。小説なんてほとんど読んだことはなかった。だけど、なぜか文章を書くことは難しくなくて楽しくて、気付けば物語を綴っていた。
私が初めて書いた小説は、隣の家の友人が持っている美しい水晶に心を奪われた少女が、それ欲しさに友人を殺し、水晶の中に引きずり込まれるという話だった。水晶の中の世界は真っ暗闇の無で、悪魔だけがいた。少女はそこから出たい一心で悪魔の言うなりになり、人殺しの罪を自覚していく。今思えば、小学三年生が書く話ではないなと思う。
しかし、タイトルだけは小学生らしく「さつ人事件」だった。「さつ」がなぜか漢字変換されなくて、ひらがなのまま保存した。今でも覚えている。
誰かに感想を言われるのが怖くてフロッピーはいつも抜いていたのだけれど、ある日、うっかり差したまま父にワープロを返してしまったことがあった。父は私の小説を読んだ。そして、褒めてくれた。「主語も述語もきちんとできている」と。
その時の私は父が何を言っているのかわからなかった。感覚だけで文章を書いていたので、主語が述語がどうだとか、考えたことがなかった。ただ、「こいつはすごい」と言われたので、褒められているとわかった。
「『さつ人事件』というタイトルや内容につっこみは入れなくて良かったのか」と今となっては思う。
私が中学に上がって、父はマッキントッシュを買った。使わなくなったワープロは、完全に私一人の物になった。とても嬉しかったのだけれど、私は感情を思い切り表に出して喜ぶことが苦手で、笑いもせずにそれを受け取った。サプライズプレゼントで喜ぶ子供の動画を初めて見た時、人は喜びでこんな風になれるのかと驚いた。私には全くなかった感覚だ。父にとってはかわいくない娘だっただろう。
それからは、学校から帰っては書院ワープロを膝の上に置いて、腰を丸めて文章を書くようになった。膝は汗だくになったし、姉にはとても馬鹿にされたが、無視して必死に書いた。ワープロに噛り付く私を見て、父は少しでもかわいいと思ってくれていただろうか。
中学校の頃の記憶はあまりないけれど、たくさん小説を書いていたことは覚えている。痛みや心地良さなどのあらゆる感覚を母に奪われた少年が、それらを取り戻す旅に出た話を最後まで書き上げたことが、一番の思い出だ。改めて読んでみるととても強引で稚拙な話の展開だと思うけれど、これはこれで嫌いじゃない。今の私よりよっぽど自由で面白いじゃないかとすら思う。
今ではもっと明るい話も書ける。人が死なない物語だって綴れる。だけど、私が初めて人が死なない話を書き上げることができたのは、高校三年生だった。
それまでは、ファンタジーまじりで生き物を殺す罪が題材になっている話がほとんどだった。そうして文章の世界で誰かを断罪していくことが、きっと私にとって心の救いだったんだろう。その時は思いついたことを書くことにとにかく夢中で、今思えばそう思う、だけれど。
あの頃は大人になった今と違って、ネガティブを隠す余裕すらなくて、周りから見ると不気味な人間だっただろう。髪の毛を伸ばしっぱなしにしていたので、「貞子」と呼ばれたこともあった。
その時はそれなりに傷付いたが、今思えばそれだけ私が不気味だったんだろう。それが私がいじめられる理由だったんだろうと、思う。
高校三年生になって、私は自らの意思で進路を決めた。周りからは馬鹿にされ、親からは不安がられ、誰からも支持されない進路だった。だけど私は、行きたいという理由だけで進む道を決めてしまった。
そうしたら、何かが吹っ切れた。髪の毛をざっくり切って、茶髪にして、ピアスを開けて、校則違反のコートを着て、友人ともよく遊ぶようになった。なんて遅い高校デビューだったんだろう。
それから、人が死なない話を書くことができるようになった。
過去に囚われず、未来を選んでいくことの素晴らしさをその時知った。
結局、私は誰もが無理だと言っていた職業に就くことができた。親はとても驚いて、その時、ようやく私を認めてくれた気がする。
そんな職場で、ハラスメントといういじめに陥って、私はまたも沈んでいくことになるのだけれど、この時は全能感でいっぱいだった。何でもできるし、どこへでも行けると思っていた。
書院ワープロがなかったら、私を取り巻く世界はもっと違っていたかもしれない。
もし書院ワープロがあったままだとしても、両親がもっと私に関心を示してくれたら、私がこうしてしまうことの理由を聞いてくれたら、もっと違っていたかもしれない。父母共に悪い人ではなかったが、周りが見えていない人だったと、今となっては思う。当時は、何も考えていなかったけれど。
紆余曲折はあるものの、今、自分なりの幸福を見出せる人生になっている。
ネガティブでそこそこのメンヘラではあるけれど、死のうと思わない。生きたくて生きたくて仕方がない。
そもそも、「死にたい」と思うこと自体、「思うように生きたい」気持ちの裏返しでしかないと思う。私はあの時、本当に死にたかったのではなくて、思うように生きたかっただけなんだと思う。
書院ワープロの上で、私はそれを実現できた。だから、生きられた。
私は驚くほど字が下手なので、ノートとペンではここまで自由に書けなかっただろう。文明の利器の恩恵だ。
私が今こうして文章を綴ることに異常な快感を覚えるのは、パブロフの犬のように、文章を書けば自分が行きたい世界に行けて描きたい世界を描けると思っているからではないだろうか。
まさか書院ワープロを作った人も、人の命を救っていたなんて思いも付かないだろう。私もまさか書院ワープロに救われるなんて思わなかった。
今は書院ワープロに感謝している。死ぬまで捨てないで持っているつもりだ。